2016年03月11日

3.11

5年前、未曾有の大災害 東日本大震災
(当時の画像を載せていますので、ストレスを感じる場合は見ないでください)


自衛隊退職後、予備自衛官(年間5日間の訓練)から
新しく編成された即応予備(年間30日間の訓練 有事の際は現役に復帰)に切り替えました
年間5日間程度なら有給休暇を使い、会社に内緒で訓練に行っていましたが
年間30日となるとさすがに内緒では無理で会社に、相談したところ
”そんなアルバイトみたいなかんかくだろう、どうしてもやりたいなら社員辞めて臨時になれ”
といわれました
確かに、世間の認知度は低く、そう思われても仕方ないことではありますが、ただ人に言われて
辞めるのは、絶対いやだったので即応予備を続けることにしました
即応予備を定年退職(52歳)するまで、何事もなく終わると思っていましたが、
3.11が起こりました
翌日直ぐに、自衛隊から災害派遣に参加出来ますかと電話が来ました、
その時の感覚は今でも忘れませんね、やりがい、不安、今後のこと
もちろん、与えられた命令は、どんなことでもするのが派遣条件ですので
それなりの覚悟を決めました
実際の任務は、被災された方々の給食支援だけでしたね
今考えると、まだいろんな支援が出来たのにと思いましたが
当時は、とにかく混乱があり先が読めない状態だったですね

雨竜にも活断層がありますが、30年以内に大地震が起きる可能性があるみたいです
地震後の通電火災での被害が全体6割もあるので
地震ブレーカーを設置しようと思っております
電力自由化で通電火災の対応はどうなってるんでしょうね
今後、各社に問い合わせてみようと思います

長々となりましたが、当時の画像を 
( ストレスを感じて気分が悪くなる場合がありますのでその場合は見ないでください)

苫小牧からフエリーで仙台   陸路で釜石市まで
3.11

釜石市の廃校になった小学校が宿営地です
3.11
即応予備の部隊 300人ほどです

公園に建てた大型テントに全国からの救援物資が集まります
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テントの中から配給先で要求している物資を運び出してトラックに積み込みます
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配給場所の大槌町へ 
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信号は全部機能していないので国道の交わる交差点のみに警察官が交通整理

釜石市内
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壁に瓦礫がこすれた跡があります、津波の高さがわかります
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大槌町
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大槌町の広い場所にパワーショベルが3台しかありませんでした
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骨組みだけ、津波の勢いが
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屋根に船が載ってる家がよくありました
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なにもかも流されていました
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高台にある老人ホームで救援物資の配給をしました、高さはこれくらい
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配給前の準備
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配給しやすいように並べ替えたりも
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配給の時間が来たらマスクと手袋は外します
被災された方々はマスクも手袋も持っていないので、私たちがしているわけにはいきません
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今回の災害派遣で感じたことは
まだ、いろいろな支援もできたのにと思いました
ただ、混乱の中難しいのも事実です
私たちが行って、本当に役に立ったのかはわかりません
ただ、薄っぺらい会社の社員でいなくてよかったと思いました

3.11で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます




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この記事へのコメント
あの時はお疲れ様でした。
当時の映像を視ると想定外の災害だったんだと今でも思います。
Posted by 中空知民族解放戦線 at 2016年03月11日 11:40
テレビに映る被災地より
実際に見た被災地は
なん十倍も荒れ果ててましたね
今年は以前派遣された
大槌町にいってみるつもりです
Posted by S.C.FS.C.F at 2016年03月11日 17:14
自分の心に深く刻みましょう!
宣誓書の言葉を。
「危険を顧みず、国民の負託に応えます」と。
我々は、最後の砦なのだから。
Posted by 中空知民族解放戦線 at 2016年03月12日 08:47
(^o^ゞ 了解!
Posted by S.C.FS.C.F at 2016年03月12日 12:26
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